戦略は「仮説」である

| コラム 株式会社エデュケーション

「戦略は仮説である」と言うと、多くの人は一瞬、言葉を失う。それは、このフレーズが戦略を軽んじているようにも聞こえるからだ。

戦略とは、会社の進む方向を定めるものだ。数年単位の資源配分を決め、人の配置を決め、投資の可否を決める。それを「仮説」と呼ぶのは、あまりに無責任ではないか。そんな反論が頭に浮かぶのも、もっともである。

しかし、本章で私が言いたいのは、「戦略はいい加減でよい」ということではない。むしろ逆だ。戦略を仮説として扱えない組織こそが、戦略を最も粗雑に扱っている。

〇完成品としての戦略が生む錯覚

多くの企業で、戦略は「完成品」として提示される。分厚い資料、精緻な分析、美しいストーリー。そこには抜けも漏れもないように見える。この瞬間、組織にはある錯覚が生まれる。

「もう考えることは終わった。」「あとは、実行するだけだ。」

だが、この錯覚こそが、戦略実行を止める。なぜなら、現実は資料の中には存在しないからだ。顧客は変化する。競合の動きも移り変わってゆく。そして何より、自社の組織の中の人間の知識、取組姿勢、行動も変化する。

戦略を完成品として扱った瞬間、組織は「考える主体」から「従う装置」へと変わってしまう。このとき、戦略はまだ一歩も前に進んでいないのだ。

〇やってみないと、正しさはわからない

戦略が仮説である最大の理由は、単純だ。やってみないと、それが正しいかがわからないからである。市場分析がどれほど精緻でも、競争優位のロジックがどれほど美しくても、実行して初めて見えてくるものがある。

・顧客は、本当にその価値を評価するのか
・現場は、その戦略を日々の戦術や判断に落とせるのか
・組織は、その方向にエネルギーを向けられるのか(動機付けできるのか)

これらは、会議室では答えが出ない。現場で、行動を通じてしか検証できない問いである。だから戦略は、本質的に「仮説」なのだ。

〇 組織は、戦略を検証する実験装置である

ここで重要なのは、戦略を検証するのが「誰か」という点だ。戦略を作った経営者でも、
分析を行ったコンサルタントでもない。戦略を検証するのは、それを生きる組織と現場の人間である。

現場は、戦略を「実行する場所」ではない。戦略の正しさを、日々の行動を通じて確かめていく唯一の実験装置である。

現場の違和感は、戦略への反抗ではない。それは、仮説が現実に触れたときに生まれる、最初の重要なデータである。

〇 なぜ戦略は「仮説」と発言できなくなるのか

それでも多くの組織は、戦略を仮説として扱えない。なぜか。理由は、能力の問題ではない。
恐怖の問題である。

「仮説だ」と言った瞬間、「その程度の完成度なのか」と思われるのが怖い。「プロとして未熟だ」と評価されるのが怖い。「上に説明できない」と感じるのが怖い。

戦略を仮説として扱うとは、「間違う可能性」を公に認めることでもある。そしてそれは、多くの組織文化において、減点や無能さと結びついてきた。

だから戦略は、完成品として固められ、疑えないものになる。仮説だと発言できるのは、当事者だけであるここで、はっきりさせておきたいことがある。

戦略を仮説として扱えるのは、当事者として引き受ける覚悟のある人だけだ。

自分は安全な場所にいながら、他人の戦略を「仮説だ」と言うのは簡単である。しかし、自分の意思決定として戦略を引き受け、その結果に責任を持つ立場になると、人は簡単に「仮説」という言葉を使えなくなる。

それでもなお、「正しい戦略など、最初から存在しない」と言い切れる人は、戦略を放棄しているのではない。むしろ、戦略を最も真剣に扱っている。

〇 戦略を仮説として扱うということ

戦略を仮説として扱うとは、戦略を軽く扱うことではない。それは、

・戦略は未完成であると認めること
・実行を通じて学び続ける前提に立つこと
・現場を「従う存在」ではなく「考える主体」として信じること

である。

戦略を完成品として扱った瞬間、組織は思考を止める。戦略を仮説として扱ったとき、組織は動きながら考え始める。

〇 未完成であることを、引き受ける

戦略は、実行されながら形を変えていく。それを不安定だと感じる人もいるだろう。しかし、現実の経営とは、もともと未完成なものを引き受け続ける仕事である。完璧な戦略が組織を救うのではない。仮説を実行し、そこからの学びを形にし続ける組織だけが、戦略を正しくしていく。

戦略は、作りてが完成させるものではない。現場が引き受け、試し、問い直し続けるものだ。そしてその営みの中心にいるのは、常に、組織と現場の人間なのである。